ものすごく正確な時計 その1


科学技術振興機構プレスリリース

共同発表:超高精度の「光格子時計」で標高差の測定に成功~火山活動の監視など、時計の常識を超える新たな応用に期待~


僕は普段、腕時計をつけている。前の腕時計は時刻がずれてしまうのが気になっていたから、電波時計にした。毎日電波を受信して補正されるので、ずれない。いつでも正確な時刻を刻んでいるという安心感がうれしい。最近は腕時計をつけている人は少ないのかな。時間を見るときは携帯電話で見る人が多いように思う。携帯電話の時計も、インターネットを介して同期しているだろうから、(多分)正確である。

電波時計は電波に乗った正確な時刻を受信し、時計の針を合わせる。そこからは時計に内蔵されたクオーツが時間を測り、時計を進めている。クオーツが時を刻むうちに、時計が示すべき時刻とずれが出てくる。ー日ー回、電波を受信することによって、また時計の針を合わせるのだ。ー日のうちの誤差は、クォーツの精度によって決まる。

電波を受信できない時計では、正確な時を刻むために様々な工夫が施されている(あまり詳しくは知らないが)。機械式の時計では、時計の向きによって変わる重力を補正するためにトゥールビヨンという機構がある。クォーツ式にもそういう工夫は恐らくあると思う。

時計の正確さ、すなわち時計の精度はどうやって表わされるか。腕時計を新調した際、父の持っている腕時計の精度を聞いたことがある。「その腕時計どれくらい正確なん?」と聞いたら「一ヶ月に2秒もずれへんで」とのこと。まさに、この答え方が時計の精度を表す。

時計の精度は、以下のように表される。

時計の精度 = │正確な時間 - その時計で計った時間│ / 正確な時間

時刻ではなく時間であることに注意(時刻だと割れない!)。父の腕時計が一ヶ月で2秒進んだとしよう。一ヶ月は大体2,600,000秒だから、

│2,600,000秒 - 2,600,002秒│/ 2,600,000秒 ≒ 7.7×10-7

となる。これは10のマイナス7乗の桁だから、7桁の時計といういうらしい。

さて、今回取り上げたプレスリリースにある「光格子時計」は、クォーツに比べると、ものすごく正確な時計だ。なんと18桁の時計である。これがどれくらい正確かというと、標高が測れるくらいに正確なのだ。なぜ正確な時計だと標高が測れるのか、というのをこれから書いていきたい。

サルを訓練すると脳が大きくなりました!という研究

慶応義塾大学のプレスリリースから。理化学研究所との共同研究。
「達成感」による脳内変化を明らかに-新たな学習法や、精神・神経疾患の治療法の開発につながる成果-:[慶應義塾]

コモンマーモセットという動物は聞いたことがなかった。サルの一種で「マウスよりも人間に近い実験動物とし1て利用される」そうだ(Wikipediaより)。コモンマーモセットに道具を使って餌をとるよう訓練し、訓練が進むに連れて脳の側坐核(そくざかく)と呼ばれる領域の体積が増加することを明らかにした研究である。

この研究では、タイトルにある「達成感」が一つのキーワードだろう。コモンマーモセットは「達成感」を得るために難しい課題に挑戦し続けたという。果たして動物が「達成感」を得られていることを示すにはどうすればよいのだろうか。たとえ身近な人でも、その人が達成感を得られているかを見極めることは結構難しい(僕が鈍感なだけかもしれない)。それが言葉をしゃべらない動物ときたら、尚更大変そうだ。実際、プレスリリースにも「達成感は客観的に評価することが難しい感覚」であると書いてある。

プレスリリースでは、コモンマーモセットが達成感を得たとする根拠として、課題の報酬はおやつ程度の物であり、それを得るためにあえて難しい課題に挑戦するのは「やる気があるとき」だけとしている。さらに、訓練が難しくなっていくと、おやつをとるのに時間がかかるようになった。そうなってもコモンマーモセットは道具を使い続けた。このことから、「単におやつが欲しいだけではなく、成功したときの達成感が徐々に増大した」のだと考えられる、としている。

コモンマーモセットの実験において、課題の難易度は小さなステップを刻み、時間をかけて(試行回数は5000回・総訓練期間は13ヶ月)行ったそうだ。直接言及されているわけではないが、コモンマーモセットを訓練するのは相当大変だったのだろう。数字や文体から伝わってくる。

(サルでも)小さなステップを刻むことで側坐核の体積を増大させることができたので、今後の展開として(人間の)学校での学習や機能回復のためのリハビリのメニュー開発に応用も期待できるそうだ。

課題や目標を小さいステップに分けるというのは、目標を達成するための手法として自己啓発本で良く紹介されている。それに脳科学的な根拠を与えた研究、と言えるだろう(対象はサルだが)。

細菌がプラスチックを生産する

理化学研究所のプレスリリース

高分子量バイオプラスチックを生産する海洋性の光合成細菌 | 理化学研究所

海にいる細菌が、体内に栄養を蓄えるためにプラスチックをつくりだすそうだ。そのプラスチックを人類が利用できるようになれば、石油からプラスチックを作らなくて良くなるかもしれない。

これまでにもプラスチックを作る細菌は見つかっていたようが、今回プレスリリースとなった研究は下記の2点が新しい。

海の細菌であること

地球上には、淡水に比べ圧倒的に海水が多い。もし海水を直接利用できるようになれば、生産上都合が良いかもしれない。今回の実験では人工海水を使用している。本物の海水(必要があれば綺麗にして)でも同様の結果が得られることを期待する。

分子量の大きいプラスチックが生産されていること

細菌が作ったプラスチックを取り出し、人間が利用できるようにするためには、 プラスチックとその他の物質を分離しなければならない。その過程で、分子量が小さくなってしまうので、なるべく分子量の大きいもののほうが良い、ということらしい。 また、分子量が大きいほうがプラスチックとして、一般に強度が強く伸びも良いようだ。そういう性質のよいプラスチックが生産できたということだろう。

「働き方改革」の記事を読んで質問を考えてみた

今朝読んだコラムをもう一度読みながら、内容の解釈と、どういう質問ができるかを考える。じっくり読むと良くわからない記事だ。その分からなさを、なんとか言語化していきたい。

働き方改革=第一生命経済研究所特別顧問・松元崇 http://mainichi.jp/articles/20160818/ddm/008/070/065000c

¶1

導入部分。働き方改革担当相が新設された理由は、無理のある働き方では、本人・企業・国にとっても良いことではないから、というのがこのパラグラフの主張だ。

Q1「無理のある働き方」とは何か。

「無理のある働き方」は、本人が幸せと感じないような働き方ではないか。これは殆ど同じ意味だから、無理のある働き方では本人にとって幸せではない、という命題は何も言っていないに等しい。

Q2 無理のある働き方をしている社員・国民がいると、企業や国の成長につながらないのはなぜか。

まぁそうだろうなとは思うが、考えてみるとかなり飛躍のある推論だ。

¶2

企業・国の成長のためには、そこで働く人々の幸せが必要であることを述べている。その根拠として、幸福度と作業・業務の生産性の関係についての研究結果を参照している。

Q3 「幸せな人は仕事ができる」の「幸せな人」とはどのような人ですか。

研究成果であるからには、「幸せな人」は論文なりで明確に定義されているはずだ。それを知りたい。

Q4 ワーク・ライフ・バランスとは一体何か。

ワーク・ライフ・バランスは、ワークとライフの量のバランス、という認識だった。しかし、そう思って読むと話が繋がらなくなる。後のQ6はそれに関連した質問。

¶3

経済成長を目指すならば働き方改革が必要である、という主張の根拠として、 かつての高度経済成長の時代には、現代と比べるとワーク・ライフ・バランスがとれていたことをあげている。

Q5 経済成長していたから、ワーク・ライフ・バランスが取れていたのではないか。

著者の主張は、国民がワーク・ライフ・バランスがとれていれば経済成長する、ということだ。因果が逆の可能性はないか。それを問う質問。もしそうならば、働き方改革をするよりも、直接に経済を刺激するような策をとらなくてはならない。

Q6 「追い出し部屋での無意味な労働」とワーク・ライフ・バランスの関係は?

「追い出し部屋での無意味な労働」は、ワークの質の話であって、ワーク・ライフ・バランスという言葉で表されるような、ワークとライフの量の話ではないと思う。

¶4

ワーク・ライフ・バランスのとれた働き方の実現に向け、まずは「多様な働き方が当たり前な社会」を目指すための議論を行なうことを提案している。さらに、そういう社会を実現するための負担は、国民が受け入れるべき、という。

この最後の段落が、最も言いたいことだと思う。提案のみ行われており、その理由が述べられていない。よって理由を問う質問をしたい。

Q7 なぜ「女性や若者にとって再チャレンジ可能な、多様な働き方が当たり前な社会」がワーク・ライフ・バランスのとれた働き方の実現につながるのか。

女性や若者が突然登場した印象をうける。なぜ女性や若者のための議論から始めるのか。多様な働き方とワーク・ライフ・バランスのとれた働き方はイコールではない。どう繋がるのかを問いたい。

Q8 「負担」とはどういうものが想定されるか。それを国民が受け入れるべき理由は何か。

突然、負担すべきと言われても、どういう負担なのか全く議論がない。具体的にどういうものを想定しているのか聞いてみたい。

「幸せな人は仕事ができる」とは

今朝の朝刊、毎日新聞のコラムより。

働き方改革=第一生命経済研究所特別顧問・松元崇

http://mainichi.jp/articles/20160818/ddm/008/070/065000c

 

引用する。

東京工業大学の矢野和男氏によれば、幸せな人は仕事ができる。幸福度が高い人は、単純作業でも10〜20%生産性が高く、創造性が求められる業務ではその差は300%にもなるとのこと。 

 この部分だけを読むと、幸せと仕事ができるか、の因果関係は分からない。次の部分はこうなっている。

働き方を改革し、ワーク・ライフ・バランスのとれた働き方を実現していくことが重要なのである。

「働き方を改革」すること、「ワーク・ライフ・バランスのとれた働き方を実現」することが重要であると言っている。つまり、ライフにおいて幸せになることが、ワークを上手くやることにつながる、と考えられているように思う。

ライフが幸せであれば、仕事ができるのだろうか。仕事ができるからライフも幸せになっているのではないか。単純作業や創造性が求められる仕事をうまくこなせる人ならば、自分のライフも上手くこなして、幸福を得ているのではないか。

物事を上手に進めていく能力は、自分の人生に大きく影響すると、最近考えていたから、読んでいてかなり引っかかった。

「教授」と呼びかけることについて

松村嘉浩『増補版 なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか? 日本人が知らない本当の世界経済の授業』を読んだ。大学の教授と、そのゼミ生との対話型の本である。その二人の会話の中で、ゼミ生が先生を呼ぶときに「教授」と言うのだ。かなり違和感がある。

1年生向けの文系の授業を思い出す。「教授」は呼びかけるときに使う言葉ではない、と先生が言っていた。確かに、(人より長い)大学生活のなかで、先生のことを「教授」と呼びかけたことは無いし、呼びかけているのを聴いたこともない。

本棚から、大学の教授と学生の対話型の本を引っ張り出して見てみた。3冊みつけたけど、どれも「先生」と呼びかけている。2冊は大学の教授が著者であり、もう1冊は(元)学生が書いたものだ。

「教授」と呼びかける起源は、映画(あるいはドラマか小説、そしておそらく恋愛物)の影響ではないだろうか。昔大ヒットしたもので、先生のことを「教授」と呼びかけるものがあり、その影響が今でも続いているのでは、と想像している。具体的な作品に心当たりはない。けど、先の本を読んでいる時に「教授」と呼びかけるシーンが出てくると、映画かドラマ的な雰囲気を感じるのだ。しかも何故か、その後の二人の展開を期待してしまう。。。

本の内容は、これからの日本を考えるという、マジメな本である。だけど「教授」の一言で不真面目な態度で読んでしまった。